18トリソミー症候群の長女の事

これは長女の妊娠に異常が見受けられた時から出産を経て、その命が尽きるまでの約2ヶ月間、当時ネット上で公開していた私のWeb日記(当時は「ブログ」という言葉は一般的ではなかった)から、該当部分を抜粋編集したものである。

2002年8月17日 (土)

産婦人科での定期検診の予約が午前9時半から入っている奥さんは、1人で早起きをして出かけていった。

その検診結果なのだが、どうした事か、ももちゃん(仮名)は7月31日の検診から2週間を経ていながら体重が僅か100g程度しか増加しておらず、妊娠9ヶ月目に入ったにも拘らず 1,200g余と相変わらず標準よりも極端に小さいままである。

それでも元気な胎動を続けているので問題は無いだろうと思い込んでいる親馬鹿な私なのだが、やはり妊娠週をもう一度確認した方が良いだろうか。ちなみに胎児の体重は身長や頭の大きさから計算によって推定されるらしい。

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  • 2002年8月30日 (金)

    奥さんの産婦人科での定期検診日である。超音波検診によって以前から標準よりも身体が小さい事が分かっていた胎児のももちゃん(仮名)なのだが、それでも発育速度そのものは特に遅い訳ではなく、また、ももちゃん自身の心音も胎動も問題無いので楽観視していた。ところが前回の今月17日の検診時に発育速度が急激に低下したため、奥さんはもちろん、私も緊張感を持って今日を過ごしていた。

    午後2時頃に奥さんから「電話ちょうだい」とのメールが届いた。簡単な伝達事項ならメールで事足りるので、電話での会話が重要な内容を含んでいる事は想像に難くない。瞬時に望ましくない事態が頭の中をグルグルと周回したのだが、とにかく速攻で自宅に電話を入れてみた。

    奥さんの話によると、超音波検査の結果、頭の直径は標準と比較して正常なのだが、身体の大きさが小さく、そこから計算で推定される体重も 1,300g余と、前回の検診時から2週間を経て100g程度しか成長していないとの事であった。ちなみに、妊娠35週(9ヶ月)の標準体重は約 2,500gである。そして医師より、このままでは出産時の胎児の体重は 1,500g程度となる事が予測され、2,000g以下で生まれた場合は産後の処置が必要となるので、小児科の医師がいる病院で出産した方が良いとの説明を受けたとの事である。そしていくつかの病院の中から最も近い、と言っても自宅から車で約40分の距離にある、北里研究所メディカルセンター病院への紹介状を書いてもらったらしい。

    後でネットで子宮内胎児発育遅延について調べてみたのだが、体重と身長と頭囲が一様に小さいタイプと、身長と頭囲は妊娠週相当であるが体重のみ小さいタイプ、そしてその中間タイプに分けられ、前者は胎児自身に起こった染色体異常や胎内感染症などの疾患が原因であり、後者は母体の妊娠中毒症や子宮・胎盤系の機能異常による子宮内の栄養不良が原因で、二者の中間は母体の栄養失調や薬物摂取や飲酒・喫煙などが原因と考えられているらしい。この中でももちゃん(仮名)に当てはまるのは母体が原因の場合であるが、もし妊娠中毒症などの疾患があるならば、今までの検診でとっくに気付いていたと思われるため、その可能性も薄いと憶測している。

    とにかく今は紹介された病院にて診察を受け、その結果から行動や意識を決めていくしかない。9月7日に行く予定である。

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  • 2002年9月7日 (土)

    8月30日に書いたように、奥さんの行き付けの産婦人科から紹介された北里研究所メディカルセンター病院へ診察のために家族揃って行ってきた。

    比較的新しく、広くて明るく落ち着いた雰囲気のロビーの片隅にはなぜかグランドピアノが置いてあり、薬の処方や会計の順番も発券したナンバーを窓口の上部に設置した大きなプラズマディスプレイに映し出すという銀行と同じ方式で、しかも検尿のための小水を取るだけで数箇所の窓口にて手続きを行うという面倒臭さから、情報処理を迅速に行い、同時に単純なミスを防ぐため、すべてがオンラインで結ばれて事細かに確認をしている事は容易に想像できた。

    総合病院なので過去の体験から下手をすると数時間は待たされるだろうと覚悟していたのだが、なぜか予想よりもロビーにいる患者数が少ないために不思議に思ったのだが、掲示してあった曜日毎の外来受付の内容表に「土曜日は新規外来のみ」との記載があったために納得し、産婦人科の前で待つ事わずか10分程度で奥さんが中の待合室に呼ばれた事に驚いた私たち夫婦である。

    奥さんが受診している最中、ソファがたくさん並んでいる広い空間に放置された子供たちが黙って静止しているはずがなく、2人でワーキャア騒ぎながら走り回るので、思わずいつものように「ここは病気の人がいっぱいいるんだから静かにしなさーい!」と何度も怒鳴ったのだが、実は私の声が一番ウルサかったというのはお約束である。

    診察の結果、やはり母体にも胎児にも何の異常も見当たらないとの事で、さらに胎児の心電図などを取って詳しく調べる必要があるらしく、次回は10日に来院しろとの事で、ご丁寧に医師が診察の予約までしてくれたらしい。ここで心電図がどのような仕組みでどういった不具合を発見するものなのかを具体的に知らない事に気付いたので、後でネットで調べてみたのだが、心臓が規則的に動いて血液の流れが正常かどうか、また心臓の筋肉の異常の有無などを感知し、不整脈や伝導障害や狭心症などの心臓疾患を発見するものであるという事が分かった。つまりももちゃん(仮名)は心臓疾患の可能性があるかもしれないという事だ。

    何れにせよ、今はどんな言葉を駆使しても不安と心配を拭う事はできない。

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  • 2002年9月10日 (火)

    9月7日に予約をした通りに、奥さんは胎児のももちゃん(仮名)の心電図やその他の検診を受けるために病院へ赴いた。この時に問題だったのは次男である。私は仕事なので面倒を見る事ができず、奥さんも病院に連れて行く訳にはいかないので、私の両親に協力を要請したところ、快く引き受けてくれたので預かってもらう事にした。長男は幼稚園で不在である。

    相変わらず仕事中でも簡単な会話ならメールにてリアルタイムに行えるので、その都度いろいろと奥さんから情報が届いたのだが、やはり平日の総合病院は滅茶苦茶に混雑しているようで、広い駐車場には誘導員が数名いるにも拘らず、ほぼ満車の状態なので止める場所を探すのが大変との事である。予約した時刻は午前10時なので、早ければ午前中に結果が出て連絡が来ると予測していたのだが、実際に奥さんからのメールが届いたのは、私が食事中の午後12時20分頃だった。そして不安と期待が入り混じった複雑な心境で開いたメールの内容は「入院になった」であった。

    すぐさま奥さんの携帯電話に連絡を入れて詳しい状況を聞いたのだが、超音波検査による外観や内蔵の状態にも、胎児の心電図にも何ら異常が見当たらないので、しばらくの間、毎日心電図のデータを取るなどの詳しい検査を行って原因を追求するための入院との事である。今のところ母子共に問題が無いのは嬉しい限りであり、奥さん自身も「私ってば入院ばっかだよねー」と笑っていたのだが、入院の期間も決まっていない事も含めて不安は一向に消えていない。明後日から入院する。

    奥さんが入院すると、長男の幼稚園が問題となる。朝は私が出勤した後に送迎バスが自宅の団地の前に迎えにきて、帰宅は午後2時半頃で私が仕事中となるからだ。夫婦でアレコレ考えて相談した結果、やはり私の両親に協力してもらい、私と長男の2人は私の実家に寝泊りをし、幼稚園の送迎バスは利用せずに父に幼稚園まで車で送り迎えをしてもらう事となった。また、次男は義父母が面倒を見てくれる事となった。家族バラバラとなるのは本当に寂しいが、短期間であり、元気な赤ちゃんを我が家に向かえるためならば辛抱できる。

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  • 2002年9月12日 (木)

    胎児のももちゃん(仮名)が小さい原因を調べるために奥さんが入院するので、私は午前中だけ半日有給休暇を取得して病院に付き添った。この間、次男は奥さんの実家にて義母が面倒を見てくれており、長男は幼稚園に行っていて不在で、そこからの帰宅には私の父が迎えに行ってくれる事になっている。そして今夜から私と長男は幼稚園の関係で平日のみ私の実家で寝泊りする予定である。

    特に緊急な状況ではないため、寂しい事を除けば単に寝る場所と環境が変わったに過ぎない検査入院なので、私は午後から会社に出勤する予定を組んでいた。すると午後に医師から検査の内容や今後の処置について詳しい話があるとの事なので、医師に時間を調節してもらい、私は仕事終了後に病院に直行して面談する事となった。

    午後6時半過ぎに病院に到着し、私と奥さんと医師の3人で面談をしたのだが、午後の検査で測定した胎児の心電図を見せられ、動きは正常なのだが、妊娠週から考えると全体的に値が低く、つまり心臓の動きが弱いとの事で、このまま母体の中で育てていくと更に心臓が弱まる可能性も充分に考えられるため、少し早いが妊娠36週ちょうどになる17日に出産し、小児科にて処置を施した方が良いとの事を伝えられた。すでに小児科の医師との打ち合わせも済んでいるようである。確かに胎児の身体が小さい原因を追求する事よりも、無事に生まれる事の方が最優先なのは当然だろう。が、出産予定日が10月15日だったため、突然の出産となった事に夫婦揃って驚いたのは事実である。

    病院から戻る途中、長男の様子が心配だった私は実家へ電話を入れたのだが、案の定、長男は寂しがっていたらしく、眠い事も重なって、いくらジジとババが風呂に入ろうと誘っても「パパと(風呂に)入る」と駄々をこねていたらしい。午後10時頃に実家に到着し、夕飯を食べてから親子2人で入浴したのだが、その際に「ももちゃんが生まれるんでママは病院にお泊りしてるから、寂しくても我慢してね」という事を充分に言い聞かせた。4歳10ヶ月の長男は一応は納得したものの、やはり寂しい感情は理屈では整理できないだろう。過保護にはなりたくないが、家族全員で頑張るしかないと自分自身に言い聞かせた。

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  • 2002年9月17日 (火)

    子供が出生した場合には2日間の特別有給休暇が取得できるので、それを今日と奥さんの退院日に割り当てようと考え、今朝は私が長男を幼稚園まで送っていった。奥さんの帝王切開術は午後3時からの予定なのだが、私が病院に到着したのは午後1時頃だった。奥さんは朝から一切の飲食を禁止され、ずっと点滴をしており、ももちゃん(仮名)も相変わらず元気に動いているとの事だった。通常の出産なら分娩室なのだが、奥さんがストレッチゃーに乗って手術室へ移動したのは午後2時半頃だった。

    デイルームで待つ事、約1時間45分で看護師が私を呼びに来た。医師と面談し、術そのものは何の滞りも無く終了して母子共に無事である事、子供は体重が 1,416gの女児で、出生直後に小児科の医師の手に委ねられて処置を施されている事などの説明を受けた。その後、奥さんも病室に戻り、血圧や発熱などの経過を見つつ、私と共に小児科の医師からの連絡を待っていた。

    午後6時頃、小児科の医師が個室を訪れ、ももちゃん(仮名)の状況を説明してくれたのだが、呼吸が不安定である事と同時に、耳が通常よりも低い位置にある事、あごが異様に小さい事、手の人差し指と小指がそれぞれ中指と薬指の上に重なるように曲がっている事、かかとが大きく出っ張っている事などの外見上の異常と、レントゲン撮影を行った際に発見した、背骨が肺の上辺りで左方向に「く」の字に曲がっている異常を説明され、すぐに県立小児医療センターへ救急車にて転送する旨を伝えられた。同時に私にも地図が与えられ、入院の手続きなどがあるので自分の車で行くように指示された。私は奥さんに小児医療センターでのももちゃん(仮名)の状況を説明するため、後で再びここに立ち寄る事を伝え、当直の看護師に時間外の面会の許可をもらい、奥さんの病室を後にした。

    私が小児医療センターに到着したのは午後7時半頃だった。受付にて入院の手続きを済ませた後に未熟児の病棟へ向かい、待つ事1時間程で処置を行ってくれた当直の医師との面談となった。医師は前記した異常の他に、血液中の血小板の数が非常に少ない事(*1)と、超音波による検査で、手足の動きなどを司る小脳が異様に小さい事と、心臓に重大な疾患がある事(*2)を伝えてくれ、それらの症状から90%以上の確立で「18トリソミー症候群」という染色体異常だろうと推測される事を説明してくれた。

    18トリソミーの染色体

    染色体は身体を作るすべての細胞の核にあって遺伝子を入れており、その情報に基づいて環境の影響を受けながら身体を作っていく仕組みで、正常な染色体は、2個の同じ番号の染色体が22対で44個から成る常染色体と、性別を決定するXとYで表される性染色体2個の計46個で構成され、22対と2個のそれぞれ半分づつを父母から受け継いでいる。その染色体が切れて欠失したり過剰になって重複したり、もしくは部分的に入れ替わる逆位や転座したものが染色体異常で、18番目の染色体が1個多い異常を「エドワーズ症候群」もしくは「18トリソミー」と呼ぶとの事。簡単に言えば、人間の身体を作る設計図にバグが発生したという事だ。なので通常は生後1ヶ月まで生きる事も難しく、下手をすれば数日で急変する場合もあり、1歳まで生きる割合は10%程度との事である。

    生まれ出たばかりのももちゃん(仮名)が数時間後に近日中の死の宣告を受けた事に対し、私は正直に言ってまったく実感が湧かず、ただ医師の話を淡々と受け止めていた。その後、新生児集中治療室(NICU)へ案内され、保育器の中で心電図の電極などが貼られたももちゃん(仮名)に会う事ができた。懸命に呼吸をし、薄い胸板からは心臓の鼓動も観察でき、一体この子のどこが異常なのか分からない程に生命力に満ち溢れていた。保育器の中に手を入れて額に触れたり、写真撮影のためのストロボが光ると、驚いて「ビクン!」と全身で反応して生きている事を主張していた。そして私が小児医療センターを出たのは午後10時頃だった。

    奥さんが入院している病院に到着したのは消灯後の午後10時半頃だった。我慢できなくはないが痛みが治まらない奥さんは私が来るのを起きて待っていた。私は小児医療センターで聞いてきた事をなるべく正確に丁寧に奥さんに伝え、奥さんも静かに聞いていた。実感が湧かないと思っていた私は事の次第を奥さんに説明しているうちに自然と涙が出てきたのだが、それはまだ他人事を泣いていて、悲しい映画を観て涙している感情でしかなかった。落ち着いているように見えた奥さんだが、本当のところは頭が混乱して何も考えられない状態だったのかもしれない。なので夫婦2人して「実感が湧かない」という事を言い合い、しかし予め用意しておいた席に急に座る者がいなくなったような、どこかにポッカリと大きな穴が開いたような虚無間が2人の心の中にあるだけだった。そして私は奥さんの感情の状態を確認しつつ、午後11時過ぎに病院を出た。

    私と長男が世話になっている私の実家へ戻る途中、車を運転していても思考力が極端に落ちている事が実感でき、また「悲しい感情が湧かないのはなぜだろう」と余計な事を考えたりして、気が付くと周囲の車に迷惑な程に遅い速度で走っていたりした。もし生まれたばかりで育てていないゆえに愛着が湧かず、悲しい気持ちになれないなら、36週もの間お腹の中で育ててきた奥さんの気持ちは果たしてどうなのだろう。答えの出ない考えが頭の中をグルグルと回り続けた私である。

    「平成14年(2002年)9月17日 午後3時2分 1,416g 38.5cm 女児」

    これが私たち夫婦の3人目の子供の誕生データである。

    *1 通常は14万から40万の値なのだが、ももちゃん(仮名)は3.6万しかないために止血が遅い。
    *2 全身に新鮮な血液を送り出す左室が異様に小さい「左室低形成」と、肺動脈と大動脈が両方とも右室から出ている「両大血管右室起始」と、大動脈が身体へ流れる血管に繋がっていない「大動脈離断」の3点。

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  • 2002年9月18日 (水)

    昨日の日記の冒頭にも書いたように、子供の出生時には2日間の特別有給休暇が取得できるので、それを子供の出産日と奥さんの退院日に割り当てようと考えていたのだが、昨夜のうちに小児医療センターの当直医から入院費などの説明があるので、今日の午前11時に来るようにと言われていたため、急遽会社を休んで赴いた。そして入院と治療の費用がすべて県の負担となる医療費助成制度の申込み手続きの説明を受けたり、ももちゃん(仮名)の処置を担当してくれる医師や看護師と面談したりした。医師からは昨夜の当直医から聞いた内容を重複して伝えられたが、専門知識の無い私には状況を正確に把握するには良い機会だった。

    新生児集中治療室(NICU)での面会は原則として両親並びに祖父母に限られているので、ももちゃん(仮名)が生まれた事を知って「会いたい」と言っているにも拘らず会う事ができない長男に、せめてビデオを介してでも生きている姿を見せたいと思っており、また、動いているももちゃん(仮名)の姿を記録に残したくてビデオカメラを持参したのだが、プライバシー問題に関連するとしてNICU内へのビデオカメラの持ち込みが禁止されている事は非常に残念で、同時に昨日の出産時に私が忘れずにビデオカメラを持っていったならば、その姿を撮影できた事を思うと本当に悔やまれて仕方が無い。ちなみに、次男は妹の誕生をいまいち理解できていないようだ。

    小児医療センターを出た後、奥さんの入院している病院に立ち寄って出生届と母子手帳と保険証を受け取り、その足で私たち家族の居住している地域の市役所へ赴いて出生届を提出した。本来ならば急ぐ必要は無いのだが、数日中に急変する可能性があるならば1日でも早くとの思いがあり、また、名前に関しては7月17日に決定して以降、長男も毎晩寝る時には「パパとママと、ももちゃんもおやすみ」と言っていたくらいにシッカリと覚えてしまったために今さら変更する事もできず、また変更する気も無い「百華(ももか)」に決まっていたために早急に提出した訳である。保険証は明日の出勤時に手続きを行う予定である。

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  • 2002年9月19日 (木)

    あちこちの部署から製品管理プログラムの作成や改造の依頼が来ており、それらは優先順位まで決められている程に私の仕事は切羽詰っているのだが、思いもかけずに個人的に5連休となってしまったので久々の出勤である。机の上に溜まった雑務を処理した後で、健康保険被扶養者移動届と配偶者出産育児一時金(附加金)請求書、会社へ提出する身上異動届と出生祝い請求書を一気に記入した。事務処理が大嫌いな私には相変わらず面倒臭い作業なのだが、ももちゃんの事を思えば屁のカッパである。本来ならば前者の2書類は同時に保険組合に提出するのだが、配偶者出産育児一時金(附加金)請求書は出産した病院の証明記入欄があり、それでは下手をすると書類の提出が来週になる可能性もあり得るため、詳しい理由は告げずに急いでいる旨を伝えて健康保険被扶養者移動届のみを先に提出するように担当者に依頼した。

    今日はどうしても外せない用事があり、奥さんの病院にも小児医療センターにも行けなかったのだが、夜になって奥さんから電話が入ったので、今後の打ち合わせや他愛も無い会話を交わした。そして私の父母と奥さんの父母をももちゃんに会わせる段取りを考えていたのだが、奥さんは仮に外出許可が出たり退院した後であっても父母たちと一緒には行きたくないと言う。その理由を聞いた私の耳に受話器越しに聞こえてきたのは奥さんの泣き声だった。昨日までは気丈に見えた奥さんなのだが、今日から病院で始まった母乳が良く出るための講座に参加中、明るく楽しそうに新生児の話をしている周囲の人たちと自分を無意識のうちに比較してしまい、急に途方も無い悲しみに襲われて涙が溢れ出たそうで、それ以降は涙腺が緩んで元に戻らなくなったのか、些細な事で泣いてしまうらしく、ももちゃんに面会して号泣するかもしれない自分の姿を父母には見せたくないとの事である。奥さんがそういう状態の時に傍に寄り添えないのが辛く苦しいが、長男も次男もももちゃんも皆が別々の場所で過ごして寂しさに耐えているのだから頑張るしかないと、厳しくも温かく励ました。

    母に聞いた話なのだが、ももちゃんを担当してくれている小児医療センターの女性医師は、助産師である私の妹の知り合いで、今日たまたま仕事の関係で妹が小児医療センターを訪れた際にその事が分かったらしく、妹は実家に電話をしてきたらしい。妹を介して聞いた医師の私の印象は「落ち着いてシッカリと話を聞いていた」との事らしいが、要は実感が湧かずに感情的に振舞えないだけである。ちなみに、ももちゃんの担当医師は推定25歳前後で、医療現場には場違いな雰囲気さえ抱いてしまうほどに小柄でスリムで可愛いらしい女性である。しかし世の中は狭い。

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  • 2002年9月20日 (金)

    仕事中に小児医療センターのももちゃんの担当医師から会社に電話が入った。驚いて受話器を取ると、専門機関に依頼していたももちゃんの細胞検査の結果が今夜にも出るので、両親一緒に結果を知らせた方が良いだろうとの連絡であった。良い意味で拍子抜けした私なのだが、明日は奥さんの外出許可が出るかもしれないので、そうしたら夫婦で小児医療センターを訪れる旨を伝えて電話を切った。

    昨日の日記に書いたように、もし奥さんに明日の外出許可が下りたとしても、ももちゃんの面会には父母と一緒に行きたくないという奥さんの意向を優先した結果、急遽だが今日の夜に私の両親をももちゃんに会わせる事となった。が、私の実家にはボケ症状の酷い父方の祖母が同居しており、一緒に連れて行っても面会はできないので、父は祖母の面倒を見るために残り、母と私が小児医療センターへ行く事となった。その途上、奥さんから私の携帯電話に明日の外出が許可されたとの連絡が入った。

    一昨日に書いたように、小児医療センターの新生児集中治療室(NICU)に入院している乳児への面会は、原則として両親並びに祖父母のみという限定がある他に、1回の面会は同時に2名までで30分程度に限られ、しかも必ず両親のどちらかがいなければならないという厳しい決まりとなっている。しかも抵抗力の弱い乳児へのさまざまな感染症を防ぐため、NICUに入る時には、まず殺菌されたサンダルに履き替え、滅菌ロッカーに入っている専用のガウンを着込み、ブラシに殺菌消毒液イソジンを付けて手から肘の部分までを丹念に洗い、それを湯で洗い流した後に消毒液を染み込ませた専用の紙タオルで水分を拭き取るという、とにかく面倒臭い手順を踏まなければならない。しかしそれを行う事によって保育器の中に手を入れて子供に触れる事ができるのだから、そのような設備が整っている事は非常にありがたい。

    私たちが面会に行った時、ももちゃんは保育器の中で元気に手足を動かして、か細い声ではあるが泣いていた。担当医師の話によると、点滴の量を徐々に減らしてミルクを飲ませる処置を施しており、しかしまだ哺乳瓶から吸引する力は無いので、細いチューブを口から入れ、それを介して胃まで直接ミルクを流し込んでいるとの事である。今のところはミルクを吐く事もなく、ちゃんと消化して尿も普通に排出しているらしい。また、皮膚が若干黒ずんでいたので質問したところ、黄疸が出たために光線治療を施し、その副作用によるものであるとの回答だった。他にも、血圧や心拍数などは安定しているものの、重大な心臓疾患があるため、体内の酸素濃度が時々低下するのだが、すぐに自然に回復する事を繰り返しているらしい。それにしても、元気に動いているももちゃんを見ていると、とても染色体異常によって生命の危機に晒されているとは到底信じ難く、その新生児の頑張って一生懸命に生きようとする生命力には逆にこちらが励まされているような気がしてしまった。

    明日は外出許可が出た奥さんと共にももちゃんに会いに行く予定である。

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  • 2002年9月21日 (土)

    私が勤務している会社は原則として週休2日制なので、祝日などで休日がある週は土曜日が出勤になる場合があり、なので今日は通常出勤日であった。が、奥さんの外出許可が下りており、正直に言っていつまで生きているか分からないももちゃんに奥さんが会える日は今日しかない可能性も無きにしも非ずなので、こんな時に仕事を優先している場合ではない。なので私は午前中だけ仕事をして午後から半日有給休暇を取得し、まずは奥さんが入院している病院へ赴いた。何もなければ出産直後の新生児もママと同じ病院で過ごしており、外出許可などは無関係なはずなのだが、病院側も事情を知っているので配慮してくれたと思われる。4日前に腹を切って縫ったばかりの人間が歩けば痛みを感じるのは当然で、私も奥さんの遅い歩調に合わせてゆっくりと歩いた。

    土曜日の昼間は意外な程に道路が混んでおり、ももちゃんが入院している県立小児医療センターに到着したのは午後2時ちょうどだった。昨夜が当直だったももちゃんの担当医師は、とうに勤務終了時刻を過ぎていると推測できたが、私たち夫婦の都合を優先してくれ、この時間まで待っていてくれた。初めて担当医師と会った奥さんのために面談の席が設けられ、そこで改めてももちゃんの詳しい状況の説明を夫婦揃って受けたのだが、ももちゃんの細胞検査の結果から正式に「18トリソミー症候群」という染色体異常である事が告げられた。また、心臓疾患に関して私が知っていた内容よりも新しい情報を聞いたのだが、それでもやはり生後1ヶ月まで生きられるかどうかという厳しい現実が変化する事は無かった。

    今日はママが初めて面会に来るという事で、また幸いにも状態が安定していた事もあり、病院側の配慮でももちゃんを直接抱っこする事ができた。通常ももちゃんは気温が33度に保たれた保育器の中でおむつ1枚で過ごしているため、体温が低下しないようにバスタオルとおくるみで厚着をして、点滴と心電図の電極を付けたまま保育器の外に出され、そして抱っこする側は不安定で万が一の事が無いように椅子に座り、そして夫婦で順番に抱かせてもらった。赤ちゃんを抱くのは久しぶりなので緊張したのだが、見事に身体が覚えていた。そして医師や看護師が口々に、今日のももちゃんは普段とは比較にならない程にいい顔をしており、それは両親の声を聞いて抱っこされているからだと言っていたので、私の目からも今日のももちゃんの表情が機嫌良さそうに見えたのは決して単なる親馬鹿だからではないだろう。

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  • 2002年9月22日 (日)

    染色体異常の18トリソミー症候群は、ほとんどの症例において重大な心臓疾患が発生するらしく、それが極端に寿命を縮めてしまう要因のひとつでもある。稀に心臓疾患を持たずに生まれる症例もあるそうだが、18トリソミーでは長く生きても2歳の誕生日を迎える可能性は無に等しいらしい。ももちゃんの心臓も例に漏れず疾患を抱えており、それは1度や2度の手術では治療できない重大なものである。

    心臓

    ももちゃんの心臓は、正常ならば左心室から出ているはずの大動脈が右心室から出ており、それだけならば肺でガス交換を行って酸素を充分に含んだ血液を全身に送る通路が無いのだが、幸か不幸か、本来ならば右心室と左心室の間を隔てているはずの中隔に大きな穴が開いており、それによって左心室から送り出された血液が一旦右心室に入り、そこから大動脈へ流れ込んで全身に新鮮な血液を送り出しているとの事である。しかし両大血管が右心室から出ているために非常に強い圧力を持っている左心室が通常よりも小さく、また全身に送り出すガス交換後の血液と、全身から戻ってきたガス交換前の血液が右心室で混ざり合うため、体内の酸素濃度が不足する危険性もあるらしい。更に、元々は全身から戻ってきた血液を肺へ送るために一時的に溜めておくだけの右心室に、心房中隔が欠損しているために左心室で全身に血液を送り出そうとして発生した強い圧力が薄い右心室の心房に直接かかるために徐々に右心室が肥大し、それが限界に達した時には右心室から左心室へ血液が逆流するため、全身へガス交換を終えていない酸素を充分に含んでいない血液が流れ出してしまい、大人で言うところの心不全の状態に陥り生命の危機に晒される可能性が非常に高いとの事だ。

    それでも染色体異常の多くが自然流産や死産などであるとの、医師の説明とも励ましとも解釈できる説明に、ももちゃんは人間として生きて世に誕生した事は疑いない事実で、その生命力は私たち夫婦が今後の世知辛い日本で生活していく上での大きな励みとなる事は間違い無いだろう。

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  • 2002年9月25日 (水)

    9月12日に突然の入院となり、それから心の準備を整える暇も無い5日後の9月17日には出産という重大な役割をこなした奥さんが今日の午前に退院した。ちなみに帝王切開による出産は4月24日に頚管縫縮術を受けているので予定通りである。私は奥さんを迎えに行くために仕事を休んだので、今朝は私が長男を幼稚園に送っていったのだが、相変わらず何かを叫びながら教室に向かって走っていく元気一杯な我が子を見ると嬉しくなるのは親ならば当然だろう。

    退院に関して時間の指定は無いが午前中という制限があるのは、会計などの都合によるものと推測される。北里研究所メディカルセンター病院では出産の場合、事前に保証金として30万円を納入してあるので、退院時に支払うのは最終的な会計の合計金額から保証金を差し引いた分だけである。出産費用に関しては保険組合から出産育児一時金(附加金)が支払われ、その他の入院治療費などは奥さんが加入している生命保険の給付金によって穴が埋められると皮算用している。

    長男と次男を出産した時にはほとんど出なかった母乳が、なぜか今回はそれなりに出ているらしく、入院中に搾乳した母乳をももちゃんに飲ませたいために母乳バッグに入れて冷凍保存しておいた物を退院時に受け取り、予め用意したクーラーボックスに凍らせた保冷剤と共に入れた。母乳は冷凍や解凍をしても免疫性や栄養分はほとんど変化がないらしく、ももちゃんが入院している小児医療センターでも冷凍母乳の受け入れを行っている。が、胸が張って痛いからといって、胸を揉みながら外を歩くのはどうかと思うぞ、奥さん。

    入院費を支払った際の釣銭がそれなりに残っていたので、昼食は「がってん寿司」に行ってみた。ここは回転寿司とはいえ、ネタが大きく美味いから好きなのだが、値段もそれなりなので機会が無ければ行かない店である。その後、夫婦で幼稚園に長男を迎えに行ったのだが、本人には何も話していなかったので、私たちの姿を見た長男は驚きと嬉しさから「えー! 今日はパパとママかよー!」と大声で叫びながら担任のヨーコ先生の制止を振り切って私たちに走り寄り、満面の笑顔で奥さんに抱きついた。やはり幼児にはママの存在が一番大きいのだろう。今日は保育参観で私の父と運動会の練習をしたはずなのだが、長男に何をしたのかをいろいろと聞いてみても「分かんない」という答えしか返ってこなかった。相変わらず何も考えていない楽しいヤツである。

    そのまま奥さんの実家へ向かい、長男と次男は義妹の協力を得て面倒を見ててもらい、私と奥さんは義父母と共に小児医療センターへ赴いた。義父母がももちゃんに会うのは今日が初めてである。私は冷凍した母乳のバッグを消毒液を染み込ませたガーゼで拭いた後、それを紫外線を照射して殺菌する専用のスペースに置き、奥さんと義母の面会が終わってから義父と共に新生児集中治療室(NICU)へ入ってももちゃんと会った。ももちゃんは点滴が外され、今はミルクだけで順調に育っているらしいが、相変わらず呼吸が時々乱れる事と、心臓疾患によって血液循環が良くないために足が冷えるとの事で靴下を履いていた。義父母は「まったく普通に見える」と誰もが思う感想を述べていたが、医師の言う通りならば残りは3週間しかない事になる。考えたくはないが現実から目を背けても何の解決にもならない。

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  • 2002年9月26日 (木)

    奥さんが加入している生命保険会社の外交員とは、週に1回のペースで私の勤務している会社の昼休みに顔を合わせるのだが、奥さんが急な入院から出産をした事を伝えると、いかにも商売的で表面だけを飾った大袈裟な笑顔で明るく「おめでとうございます」と言ってきた。もちろん目出度い事には変わりはないし、事情を知らないのだから仕方が無いのだが、やはり私としては複雑な気持ちにならざるを得ない。

    物を知らないと恥をかくのは言うまでも無いが、問題なのは本人が無知であるがゆえに恥をかいた事すら気付かない事だろう。私も自分が結婚して子供を作るようになってから初めて不妊症の存在を知り、それ以降は控えるようにしているが、以前は結婚しても子供がいない友人に無神経に「子供の予定は?」などと聞いていた事があった。

    子供を身篭っても無事に出産できるまでには多くの難関を乗り越えなければならない事は知っていたが、仮に無事に生まれたとしても、そこに様々な事情が存在する事は、自身がその立場になって初めて気が付いた。つまり多くの人が出産に関して個々に深い事情が存在する事を知らないのは想像に容易く、なので悲しい事ではあるが、ももちゃんが生まれた事は一部の関係者にしか明かしていない。

    もし医師が言った通りに、ももちゃんが本当に短い生命だった時、妹が生まれた事と、その妹が生まれながらにして病気で入院している事を理解している長男に、どのように事実を伝えればよいのか悩んでいる。家で飼っていたクワガタが死んだ時には軽々しく「死んじゃったよ」と言っていた長男だが、果たして人間の死をどのように捉えるのか。もしくは11月28日で5歳となる幼児に妹の死を伝える事は正しいのかどうか。

    残念だが、9月8日に3歳になったばかりの次男は、ももちゃんの誕生を理解できないばかりか、いずれ記憶の中から消えてしまうのだろう。いつか2人の兄弟に妹がいた事実を話す時が来るのは間違い無いと思うが、可能ならば長男には自分が3人兄妹だった事を自らの記憶に残しておいて欲しいと思っている。ももちゃんがこの世に存在した事実を1人でも多くの人の記憶に残したいから。

    書いてて涙が溢れてきた。

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  • 2002年9月28日 (土)

    午後3時過ぎにももちゃんが入院している小児医療センターへ向けて自宅を出た。

    いつもの面倒臭い手から腕までの洗浄を済ませてから新生児集中治療室(NICU)へ入ると、担当の看護師が私たち夫婦に気が付いて「ももちゃんは状態が安定しているので移動になったんですよ」と、NICUと廊下を隔てた継続保育室(GCU)へ案内された。このGCUは比較的状況が安定した新生児が処置を受ける場所で、24時間いつでも面会が可能で、祖父母のみの面会も許可されている。ここに入院した当初は医師から「ももちゃんはGCUへは移れないかもしれない」と言われていただけに嬉しい事には違いないが、しかし18トリソミーは今の医学では絶対に治療が不可能なので、正直言って何とも複雑な気分であった。

    前回の面会時に預けた母乳も飲んでおり、体重も順調に増加しているのだが、相変わらず気温が31度に保持された保育器の中にいても靴下を穿いていた事から、呼吸と心臓が苦しいであろう事は想像に容易い。それでも次には保育器から出られればと期待に欲が出てしまうのは親として当然だろう。

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  • 2002年9月30日 (月)

    当初は別に会わなくてもいいと言っていた私の父が、面会した皆が口々に「障害があるとは思えない」と言っているのを聞いて欲が出たらしく、やはりももちゃんの顔を見たいと言い出したので、今日の仕事終了後に奥さんと長男と共に小児医療センターへ連れて行った。一昨日、ももちゃんが廊下からガラス越しに部屋の中を見る事が可能な継続保育室(GCU)に移ったため、以前から会いたいと大騒ぎしていた長男も連れて行ったのだが、間近では会えない事を説明したらイジケて寝てしまった。

    まずは私と父が面会のために相変わらず面倒臭い手洗いを行ってから病室へ入ったのだが、ももちゃんはちょうどミルクの時間で、しかもその時にはおむつ交換もするらしく、看護師は良いタイミングで面会に訪れた私にそれを実践させてくれた。おむつ交換など次男の時以来なので思いっ切り躊躇したのだが、やはり子供の世話は親がやった方が良いに決まっているので挑戦した。保育器の中に両手を入れて看護師の指示に従って紙おむつを外すと見事にウンチまでしており、看護師は「お父さん大当たりで、文字通りウンがいいですね」と言われてしまった。濡れたガーゼでおしりを拭いた後に新しいおむつを着けて終了なのだが、通常の新生児と比較して約 1,000gも体重が軽いももちゃんなので、その細く折れそうな足を持ち上げる力加減が分からずに苦労した。また、赤ちゃんは股関節が抜けやすいので、足は上に持ち上げるのではなく、ヒザを曲げるようにすれば自然とおしりが持ち上がるとの注意を看護師から受けた。何人目の子供でも初心者な親を抜け出せない私である。

    ももちゃんの保育器はGCUの奥の方に位置しているので、ガラス越しの廊下からは確認しづらいのだが、寝起きで不機嫌だった長男は保育器の中でピンク色のタオルを下半身にかけ、ミルクを飲みながら動いているももちゃんを見る事ができたらしく、私がGCUの中から「ここにいるよ」とももちゃんを指差して教えたところ、長男はニコニコしながら何回も頷いていた。

    先日までは保育器の中の気温が31度に設定されて裸のまま過ごしていたももちゃんは、今日は肌着を着せられて温度が29度に設定されていた。看護師の説明によると、徐々に室温に近づけて身体を慣らしていき、状態が良ければ2〜3日中には保育器から出られるだろうとの事である。まだミルクを口で吸引する力が無いので、細いチューブで胃に直接流し込んでいるのだが、それでも乳首からミルクを吸うように唇をムグムグと動かしているのは本能なのだろうか。皮膚が吸っていた羊水が抜けて 1,200g程度まで落ちていた体重も 1,390gまで順調に増加しているので、どうにもならないと頭では理解していても期待してしまうのは親として当たり前だろう。

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  • 2002年10月1日 (火)

    昨日から戦後最大勢力の台風21号が日本に上陸の恐れがあるという情報は聞いていたが、その北上が60km/hという速度である方が興味を引かれた。つまり車で移動している感覚を当てはめれば、自分の住む地域が暴風雨となる時刻がおおよそ予測できるという訳だ。ところがまだ上陸まで数時間もあり、埼玉県では雨も風も強くない午後3時に会社から全員退社命令が発せられた。事が起こってから避難しても無意味なので正しい選択なのかもしれない。とにかく仕事嫌いな私にとって、急にそれから解放された嬉しさは言葉では表せない程に清々しいものであった。もっとも、帰宅しても遊び相手の長男は昼寝中で何もする事は無く、奥さんと共にボ〜として横になりながらテレビの台風情報を観ているうちに全員で寝てしまった。

    午後5時過ぎに私の携帯電話の着信メロディが鳴り響いて心地良い昼寝から起こされた。私の携帯電話の番号を知っているのは、平日の午後5時半までは私が勤務中で電話機の電源を切っている事を知ってる者しかいないはずである。なので着信がある事そのものに疑問を抱き、しかも発信者の番号は見覚えが無い一般の電話の番号だったため、単なる間違いだと思って電話に出てみた。するとナンと小児医療センターのももちゃんの担当医師からの電話だったので驚いた。医師の話によると、ももちゃんは状態が安定しているので今日、保育器から出したのだが、午後3時過ぎから心拍数が急激に低下する事が度々あり、今のところは自然に回復しているので今日中に事が起こるとは言い難いのだが、心臓に致命的な疾患を抱いているので何とも言えないとの事であった。医師は言葉を選んで「事が起こる」と表現したのだが、要するに「息を引き取る」という事である。奥さんにも事実を告げ、もし万が一の事があった場合に具体的にどうするかの打ち合わせをしたのだが、奥さんは時々こらえきれずに涙を見せる事も何回かあった。近日中にあると分かっていたはずなのに、いざ具体的な話を聞いてしまうと予想以上に大きな衝撃が心の中に発生したので自分でも驚いた。言いようの無い焦燥感にも似た体験した事の無い感情が沸々と湧き上がり、頭の中は混乱し、とにかく自身を落ち着かせる事が精一杯だった。

    午後9時前から激しく凄まじい暴風雨が外で荒れ狂い、ポケモンを観ていたテレビの画像が突然乱れて映らなくなったのは、団地の共同アンテナに何かのトラブルが起こったのだろう。仕方が無いので9月27日に購入した「Back To The Future」のDVDを観たのだが、映画の内容に笑っている間も電話が鳴る事から神経を反らす事はできなかった。そして就寝時も電話の子機を枕元に置いてから布団に潜った。

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  • 2002年10月2日 (水)

    昨日の夕方に県立小児医療センターのももちゃんの担当医師から状況を連絡する電話が入った以降は今日まで何の音沙汰も無く、安否が非常に気になるところだったのだが、何の連絡も無いのは無事な証拠であると自身に無理矢理に言い聞かせていた。本来ならば何を放り投げても子供の所に駆け付けるのが筋かもしれないが、医師より来院した方が良いとの指示が無かったため、普段と同じように私は仕事に出かけ、事情を知らない長男は幼稚園へ行った。しかしどうしてもももちゃんの事が気になって仕方が無いので、夕方に病院に電話を入れてももちゃんが24時間面会可能な継続保育室(GCU)に入院している事を確認し、夜に入っていた用事が済んだ後の午後9時半頃に病院に向けて家族3人で家を出た。義父母の協力を得て途上に立ち寄った奥さんの実家で長男を預かってもらい、小児医療センターに私たち夫婦が到着したのは午後10時半に近い時刻だった。

    冷凍した母乳を預け入れた後に面会したのだが、たまたま当直だったらしい担当医師の説明によると、昨日の午後から心拍数が急激に低下する事が度々あったのだが、夜には自力で回復して現在は安定しているとの事だった。染色体異常である18トリソミーは今の医学では治療が不可能であるため、医師は赤ちゃん本人に苦痛を与えるような延命のみを考えた無理な処置は施したくないとの考えで、私たち夫婦も病気の種類に関係無く、その考えには充分に同意できるため、例えば人工呼吸器などはももちゃんには使用されない事になっている。にも拘らず自力で状態を安定させたももちゃんの生命力には親として涙する程の嬉しさを覚えずにはいられない。

    ももちゃんは無事に保育器から出られたのだが、やはり心臓疾患によって血液循環が良くないため、肌着を着た上から厚手のタオルをかけ、さらに靴下も履かされていた。心電図の電極は付けられたままだが抱っこは可能なので奥さんが抱きかかえたのだが、ミルクを飲んだ直後で起きていたももちゃんはママに抱かれたのが心地良いのか、すぐに眠りに入ってしまった。また、今日は生後初めて風呂に入ったとの事で、驚いたももちゃんは泣いていたらしい。一昨日、ガラス越しにももちゃんを見た長男は「ももちゃんはちゃんとお風呂に入ってるのかなぁ?」と心配していたので、これで安心させる事ができそうだ。

    まだ気を抜く事はできないし、むしろ今後の2週間が山場であると心しなければならないのだが、取りあえず今日のところは安心できたので、午後11時頃に病院を後にした。

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  • 2002年10月3日 (木)

    一昨日に保育器から出る事ができたももちゃんは、状態が安定していれば抱っこも自由に可能で、また、ももちゃんが入院している継続保育室(GCU)は廊下からガラス越しに中を見る事ができるので、まだ妹の存在すら気付いていないかもしれない次男にも会わせたいし、長男にも改めてももちゃんの顔をシッカリと見せたいとの親馬鹿な思いから、義母の協力を得て今日の夜に小児医療センターを家族全員と義母で訪れた。

    まずは私と義母がGCUに入り、ももちゃんを抱いているところの写真が欲しいという義母の希望に応えて私が持参したカメラで撮影した。続いて私がももちゃんを抱き上げて、ガラスの向こうの廊下にいる長男と次男に向けて顔を見せていたところ、看護師がその行為に気付き、なんとありがたい事に心電図の電極を外してガラスの側まで行っていいとの配慮をしてくれたのだ。長男は椅子の上に乗り、次男は奥さんに抱きかかえられ、ガラス越しとは言え、3人の兄妹が同じ高さの目線で初めて全員集合した瞬間である。事の次第を理解できるか怪しいと思っていた次男も満面の笑顔を見せ、2度目の対面となる長男も本当に嬉しそうな表情で、しばらくの間それぞれの顔を見つめ合っていた。あまり長い時間の抱っこはももちゃんが疲れてしまうかもしれないと思い、適当なタイミングでガラス越しに「もういい?」と2人の兄たちに聞くと、その度に「まだ」と言われてしまった事からも、その嬉しさの程は容易に想像できる。

    その後、義母と奥さんが入れ替わって面会をし、奥さんもももちゃんを抱っこしたのだが、どうやらももちゃんは抱っこされるのが大好きなようで、厚手の透明ガラス製の箱型の新生児用ベッドに寝かせると不機嫌になって泣いたりした。今日の体重は出生時のそれを超えて 1,430gとの事である。順調に成長しているのは嬉しい事なのだが、同時に心臓への負担も増加していると思われるので複雑な気分である。

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  • 2002年10月4日 (金)

    昼休みが終わった直後の午後1時頃、勤務中の私の所へ奥さんから電話が入った。単なる用事ならばメールで済むので、私は咄嗟にももちゃんの事だと察知した。果たしてそれは正解で、奥さんを介して聞いた県立小児医療センターのももちゃんの担当医師の話は、10月1日と同様に心拍数が急激に低下し、しかも今回は前回の時のように刺激を与えてもなかなか回復しないとの事らしい。後で医師に聞いた話によると、この刺激とは決して大人に与えるような激しい物ではなく、背中や足の裏を軽くマッサージする程度との事である。医師はもうしばらく刺激を続けてみるが、万が一の場合も考えられるので病院へ向かう準備を整えておくように奥さんに指示をし、後ほど再び連絡をくれると言って電話を切ったらしく、その間に奥さんは私に電話をしてきたという訳だ。私はいよいよその時が来たかもしれないと心の準備をしつつ次の連絡を待ったのだが、その後15分程してから私の元に届いた連絡は、ももちゃんは取りあえず持ち直したとの内容だった。

    長男は幼稚園から帰宅してすぐに、次男の皮膚科への通院の帰りに我が家に立ち寄っていた義妹に同行して奥さんの実家へ行ってしまったとの事で、それは万が一の時のために義母と義妹が気を利かせてくれたのかもしれない。

    私の仕事が終了する午後5時半の直前にまた奥さんから電話が入った。今回も緊急の用事である事は想像に容易く、やはりももちゃんが危険な状態なので、すぐに小児医療センターへ来るようにとの連絡が入ったとの事だった。前回の時には病院に呼ばれなかったので、今回は本当に危険な状況なのだろう。都合が良かったのは子供たちが奥さんの実家に行っていた事だ。私は勤務時間終了のチャイムが鳴った途端に席を立って家路を急ぎ、奥さんを車に乗せて病院へ急いだ。が、こういう時には不思議と素直にいかないもので、私は焦りのためか、通り慣れた裏道を間違えて遠回りしてしまい、病院を目の前にした所では火事のために迂回を強いられた。

    私も奥さんも不安と焦りで押し潰されそうな気持ちを各々の心の中に閉じ込めたまま、ようやく病室に辿り着くと担当医師が出迎えてくれ、現在はももちゃんの状態が安定している事を告げてくれた。そしてももちゃんに面会しつつ、通常ならば1分間に140回前後の心拍数が一時は30回まで落ち込んだ事や、呼吸が10分間も停止した事を聞かされ、本当に危険な状態だった事を説明してくれた。その後、前記した刺激は長時間に渡ると、ももちゃん本人への負担も大きくなるため、どこまで手を尽くすのかについて医師と話し合ったのだが、人間として生まれてきて最も大事なのは、無理に延命して長生きする事ではなく、最後の瞬間に安穏として息を引き取る事ができるかどうかだと思っているので、本人の負担にならない程度まで手を施してもらい、その判断は医師に任せる事を伝えた。

    私も奥さんも自覚する事すらできない程に極度に緊張していたのだろう。ももちゃんが無事だと分かった後は夫婦共に気が抜けて脱力してしまい、激しい倦怠感に襲われた。

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  • 2002年10月10日 (木)

    長男と次男を出産した時にはほとんど出なかった奥さんの母乳なのだが、ももちゃんの出産後には搾乳しないと胸が張って痛いらしい。元々が出ない人なので少量ではあるが、毎日ももちゃんに飲ませるために一生懸命に搾乳して母乳バッグに入れて冷凍している。1箱に200袋も入っている母乳バッグを購入した時には、そんな大量には使わないだろうと言っていたのだが、毎日2〜3袋を使用していればかなりの数となる。そして今日も数袋の冷凍母乳を保冷剤を入れたクーラーボックスに入れてももちゃんに会いに行った。残念ながら長男と次男は義父母の協力を得て奥さんの実家にて留守番である。

    県立小児医療センターでは、相手が誰だか確認できない電話による入院患者の状態の問い合わせは、プライバシーの問題にも繋がる事から受け付けていないのは当然で、なので今週の月曜日に面会して以降の状況はまったく不明である。先週の金曜日や10月1日に心拍数が極端に減少したり呼吸が長時間に渡って停止したりと、危険な状態を繰り返したももちゃんなので、本音を言えば刻一刻と変化するであろう状況を逐一知りたいと思うのだが、逆に何の連絡も無いという事は無事な証拠と思って耐えるしかない。そして今日もももちゃんはミルクを飲んだ直後という事もあって熟睡していたのだが、状態は非常に安定しており、順調に成長している証拠として頬が丸くなる程に顔の肉付きも良く、ますます長男に瓜二つとなって良い顔立ちになってきた。←親馬鹿。その姿を見ていると、このまま何事も無く成長するのではとの錯覚に陥ってしまいそうになる。

    今までは自分の感情を優先してワガママな子供たちに怒鳴り散らしていた自分勝手な私なのだが、ももちゃんが生まれて以降は自分でも不思議で仕方が無いのだが、長男と次男に優しく接するようになった気がする。単なる自己満足の錯覚かもしれないが、もし自身の心境に何らかの変化があったとしたら、それだけでもももちゃんがこの世に生まれてきた意味は充分にあると思える。生後1ヶ月も生きないかもしれないと言われたももちゃんは、あと1週間でその日を迎える。

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  • 2002年10月13日 (日)

    ももちゃんが誕生直後から入院している小児医療センターに届け出ていた緊急時の連絡先は、自宅と私の携帯電話と私の勤務先の他に、奥さんが入院中は長男と共に私の実家に寝泊りしていたので、そこの電話番号を伝えてあった。が、現在は奥さんが退院して自宅で生活しているため、連絡先のひとつを私の実家から奥さんの携帯電話に切り替えてもらった。これで家族全員が外出中に何かの理由で私の携帯電話が繋がらなくても連絡を受ける事が可能となった。

    遠い親類の話なのだが、その人の奥さんが妊娠中に受けた超音波検診で、胎児に重大な心臓疾患がある事が判明し、医師より「生まれても育たないだろう」と聞かされた親類は、その胎児を出産しないように処置をしたとの事である。私の記憶が正しければ、超音波検診で胎児の内臓が確認できるというのは妊娠7ヶ月くらい以降なはずで、すでに胎児の身体は完成間近で胎動も頻繁に感じられる程に成長していたはずである。その子供をどのように生まれないように処置したのかは知る由も無いが、ももちゃんを見て絶対にその選択は間違いであると思っている。小さくて軽くて小さな奇形も随所に確認できるももちゃんだが、生まれてきたからこそ顔や存在が皆の記憶に残るからだ。

    市役所から児童手当の額改定通知書が届いたのだが、なぜか3歳未満が1人、3歳以上が1人で、改定の理由が「出生により」となっていた。つまり次男もしくはももちゃんの分が欠落している事となるのだが、理由から推測すれば次男の分かもしれない。週が明けたら記載されていた市役所内の問い合わせ先に電話を入れるつもりである。ちなみに児童手当額は、2人目までは1人につき \5,000で、3人目以降は1人当たり \10,000の支給がある。

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  • 2002年10月15日 (火)

    先月17日に染色体異常である18トリソミー症候群を背負って体重わずか 1,416gで生まれたももちゃんは、当初は保育器から出る事はもちろん、新生児集中治療室(NICU)から移動する事もできないと言われていたにも拘わらず、後で聞いた担当医師の話では、今週末には一時的に外泊して自宅で過ごす事も考えていた程まで元気になったのだが、元々の出産予定日だった今日、生後28日でママの腕に抱かれて午後8時34分に息を引き取った。

    自宅にいる奥さんから私の所にももちゃんの状態が芳しくないとの連絡が入ったのは、もうすぐ勤務が終了する午後5時頃だった。今までも10月4日や同月1日などに心拍数や呼吸数が低下したが、マッサージなどの刺激によって自力で回復していた前例があったので、私たち夫婦の危機感が麻痺していたのも事実である。

    私が帰宅した後に再び担当医師から、今までは1日に多くても2〜3回だった心拍数や呼吸数の低下が、今は1時間おきと頻繁になっているとの連絡が入った。医師も一瞬先がどうなるか分からないので、片道1時間もかかる小児医療センターまで私たちを呼ぶ事に多少なりとも躊躇があったのだろう。ハッキリと「(病院に)来た方が良い」とは言い切れない様子であった。が、とにかく私たちはももちゃんの所へ行く事とし、自宅と病院の丁度中間地点付近にある奥さんの実家へ立ち寄って子供たちを預け、空腹を満たすために途中で悠長にコンビニにて軽く食べ、そして病院に到着したのは午後8時過ぎだった。

    病棟へ行くと、担当医師を始めとして数人の看護師がももちゃんのコットの周囲に集まっており、まだ具合が良くない事は容易に想像できた。しかし面会するために病室の中に入った時に、1人の看護師から「手洗いはしなくていいので、ガウンだけ着て中に入ってください」と告げられた時に初めて緊急事態である事を理解した。すぐさまももちゃんの所に駆け付けると、普段は1分間に140回前後ある心拍数と、50〜60回の呼吸数が共に20回を下回っており、ももちゃんはすぐに奥さんの両腕に抱かされた。

    ももちゃんの心拍数と呼吸数は私たちの到着を待っていたかのように、まるで寝ているかのような柔和な表情のまま徐々に少なくなり、ついにグラフはテレビドラマでよく見るような2本の直線となった。担当医師がももちゃんの両目の瞳孔を調べて死亡が確認されたのは午後8時34分だった。私たち夫婦は結婚後初めて互いに人目をはばからずに泣いた。

    病院側の配慮で家族だけで過ごせる部屋を与えられ、そこで私たち夫婦は親としての役割を2時間ほどももちゃんに手向けた。その後、看護師の補助によってももちゃんの身体を洗い、慰安室にて担当医師や看護師たちはももちゃんに別れの挨拶をしてくれた。私たち夫婦は葬儀屋と簡単な打ち合わせをした後、ももちゃんと共に自宅へ戻った。いつの間にか降っていた雷雨が、まるで自然界がももちゃんの死を悲しんで泣いてくれているように思えた。

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  • 2002年10月16日 (水)

    通夜や告別式を経験していない私には、ももちゃんの通夜や告別式に何をどうしていいのかサッパリ分からなかった。なので県立小児医療センターと繋がりのある葬儀屋にすべてを任せる事にし、事細かな打ち合わせを自宅にて行ったのは、ももちゃんが亡くなった翌日だった。本来、通夜や告別式は故人と関わりがあった者が参列するのだが、生後28日で息を引き取り、その間ずっと入院していたももちゃんと繋がりのある者は家族と両親の父母しかいないため、子供の葬儀は派手にしないのが通例との葬儀屋のアドバイスに基づき、また、亡くなった者を送り出す儀は決して見世物であるはずがないので、本当に身内だけで小さく執り行う事とし、必要最低限の準備を依頼した。そして市営の斎場の都合から通夜は18日に、告別式は19日と日程が定まった。

    今日は早朝から私の両親と祖母が、昼過ぎには義父母と奥さんの実家で面倒を見てもらっている長男と次男と、義妹とその子供たちが我が家を訪れ、ももちゃんの出生前に購入しておいた小さな布団に横たわっているももちゃんの亡骸と顔を合わせた。その時まで事の次第を伝えていなかった長男と次男には私から事実を打ち明けたのだが、3歳になったばかりの次男は妹の死を理解できるはずがなく、もうすぐ5歳になる長男は辛うじて事実を把握したように見えたが、それでも「ももちゃん、いつ起きるの?」とか「また病院に帰っちゃうの?」などと聞かれた時には迂闊にも涙が出そうになった。

    また、奥さんの友人も数人が我が家を訪れてくれ、涙を流して悲しんでくれる者がいた事は非常にありがたく思えた。そして大きなドライアイスで両脇を冷やしているとはいえ、皆が口々に「本当に寝ているみたい」と言ってくれたほどに、まるで「心配はいらない」と私たち両親の心情を案じてくれているかのように、ももちゃんは柔和な顔付きを保ち続けていた。

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  • 2002年10月18日 (金)

    今日はももちゃんの入棺と通夜である。昼過ぎから私の両親や義父母や長男と次男、そして義妹と子供たちが我が家を訪れた。

    葬儀屋が組み立て式の簡易祭壇と、長さ僅か60cmの小さな棺を持って我が家に到着したのは予定通りに午後2時頃である。私と奥さんで白い肌着と薄いピンクの服を着て、白い靴下を履いたももちゃんを棺桶の中に寝かせ、その上から私の両親が持ってきてくれた、現在小学6年生である私の姪(妹の長女)が小さい頃に1度しか着ていないという、赤地に手毬や折り紙の鶴の柄があしらわれた着物を掛け、義妹が用意してくれた新品の靴やよだれ掛けなどを入れた。後で気が付いたら、ももちゃんの顔の横に1粒の小さなキャンディが入っており、それは長男が自らの意思でももちゃんにあげた物であった。その後、午後6時からの通夜まで集まった親族全員で10月6日に行われた長男の幼稚園のビデオを観て時間を潰した。

    午後5時前に私と奥さんはももちゃんが寝ている棺を持ち、3人で市営の斎場へ向かった。身内だけで密かに行うつもりだった通夜なのだが、予想に反して私や奥さんの友人たち数名が参列してくれた事が非常に嬉しかった。今夜はももちゃんも私たち夫婦と共に自宅に戻り、親子で同じ部屋で寝て最後の夜を過ごす事となる。息を引き取ってから3日を経て、ももちゃんの顔付きがさらに優しくなったと思うのは単なる親馬鹿に過ぎないのだろうか。

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  • 2002年10月19日 (土)

    正午に開始予定のももちゃんの告別式に合わせ、私たち夫婦は午前11時より少し前に棺に寝ているももちゃんの亡骸と共に斎場へ赴いた。病院でしか生活した事のないももちゃんの遺影は、正直言ってあまり写りの良い物が無く、辛うじて両目を開いている唯一の写真を元に、ミルクを胃に流し込むための細いチューブを消してもらい、周囲を薄いピンクでボカす処理を施してもらった。

    開始時刻を前にして親族や私の勤務する会社の上司、そして私と奥さんの友人たちが駆けつけてくれた。初めて聞いた話なのだが、私の従姉妹は数年前に子供を死産したらしく、その時は従姉妹が精神的に立ち直るまでに数年を要したらしい。また葬儀屋に聞いた話では、乳児の葬儀も少なくは無いらしく、中には錯乱状態に陥る母親や、火葬の直前まで亡骸を抱いて離さない母親もいるとの事である。ここ数日は私も奥さんも普段とあまり変化が無いように思えるが、互いに自覚できない精神的なダメージが私たちの内部のどこかに存在している気配を感じているのは確実で、しかし実体の知り得ないそれをどのように開放すればよいのか分からないでいる、何とも居心地の悪い状態が続いていた。

    告別式はほぼ通夜と同じ事を行うだけなのだが、喪主の挨拶で私は不覚にも皆の前で涙してしまった。何を話したのかはよく覚えていないが、多分「ももちゃんが病気を持って私たち夫婦の元に生まれてきた事には意味があり、それを良かったと思えるなら幸いだ」というような事を喋ったと思う。そして最後は参列した皆でももちゃんに顔を合わせ、その後は親族のみが斎場へ入り、ももちゃんを火葬した。最後まで柔和な表情を保っていたももちゃんの顔を見る事も、その柔らかな頬に触れる事ももうできない。

    生後28日では頭蓋骨も固まっておらず、また染色体異常のために肋骨なども細くて整っていなかったももちゃんの遺骨は、ほとんど形が無いほどにバラバラな状態で、それのすべてが高さ10cmほどの小さな容器に収められた。そして私たちは式に参列してくれた人たちに見送られ、ももちゃんの遺影と位牌と遺骨と共に家族全員で自宅に戻った。

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  • 2002年11月11日 (月)

    確実に存在したはずなのに、ももちゃんがいない日常を生きているうちに、その事実が徐々に風化していく。停止してしまった過去にとらわれていては、常に先へと流れている時間に乗って生きている意義すら見出せない。時間の経過という味方によって過去の辛い物事はどんどんと色あせ、それと相対的に想い出を自然と美化していく事は、人間が生きていくために必要な能力として備わっているのかもしれない。

    長男は「ママ、次の赤ちゃん生むの?」と奥さんに聞いた。私たちは微笑みながら「赤ちゃん欲しいの?」と聞き返すと、素直に「うん」と答えた。加えて「男の子と女の子と、どっちがいい?」と聞くと、間髪入れずに「女の子」と返答した。そして続けて「ももちゃん生んで」と言う。次男は出かける時に自分のお気に入りの犬のぬいぐるみを、ももちゃんの遺影と位牌と遺骨が安置してある仮設祭壇の前に置いて「いい子で待っててね」と声をかけている。一緒に生活した時間は皆無なのだが、ママのお腹の中にいた時には間違い無く家族5人で過ごしていた訳で、幼い彼らの心の中にも確実にももちゃんは生き続けている。

    絶対に女の子が、それも健康体で生まれる事が確実ならば、次の子供を望むかもしれない。しかしそれがコントロールできないならば、これ以上は奥さんの身体に負担はかけたくない。そして時はまた何事も無かったかのように過ぎていく。

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  • 2003年12月24日 (水)

    本日の午後4時30分、2,850gで次女が誕生した。

    長女の事があったため、今回の出産に関しては過去に経験した事の無い緊張感を覚えたが、母子共に無事であった事は感激の一言に尽きる。

    予め産婦人科の医師より性別を聞いていたのだが、女児の場合はモノが隠れていて確認できない場合があるので、100%の断言はできないとの事。しかし、待ち望んでいた女児であるために名前は1つしか考えておらず、もし男児が生まれた場合には焦っていただろう。

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