2011年3月11日 (金)

帰宅困難者となった。言うまでも無く、東北地方太平洋沖地震の影響である。日本時間の午後2時46分ごろに仙台市の東方沖70kmの太平洋の海底を震源とする地震は、その規模を示すマグニチュードが9.0と、発生時点において日本周辺における観測史上最大の地震であり、後日この地震に伴って発生した津波およびその後の余震により引き起こされた大規模地震災害を「東日本大震災」と呼称する事となった。

Train

この日は午後1時から新横浜の客先にて作業を行った後、午後2時30分くらいに横浜駅からJR湘南新宿ラインに乗り、たまたま座れたために爆睡してしまった。ウトウトしながらガタガタと左右に小刻みに揺れる感覚を身体に受けながら「何だか物凄く揺れる路線だな」と寝ボケながら思っていたら、実はすでに地震のために緊急停車をしており、余震で電車がユラユラと揺れていたのだった。時計を確認すると午後4時くらいで、車内放送から電車が止まってからすでに約1時間30分が経過していた事が分かった。家族の安否を確認しようと携帯電話で発信を試みるも、画面には繰り返し「しばらくお待ちください」の文字が表示され、十数回目のトライでようやく奥さんに繋がって家族全員の無事を知る事ができた。自宅では地震直後から停電となっているとの事だったが、取りあえずは一安心である。やがてJRにて運行復旧不可能との判断が下されたようで、乗客はハシゴを使用して線路に降りて避難するように伝えられた。避難と言えば聞こえがいいが、結局は後は自力で何とかしろと無責任に放り出されたと言う事だ。滅多にない経験なので不謹慎にも多少ワクワクしながら気楽に写真を撮影したのだが、その時はこれから長い夜が始まる事はまったく想像していなかった(星印)。

Map

電車から降ろされた場所は西大井駅から約2〜3km手前で、JR職員の説明に従って徒歩(赤線)で国道1号線に出て五反田行きのバスに乗ろうと思ったのだが、夕方のラッシュと、地震の影響で都心の電車がどれも完全にストップしている事と、道路も首都高が完全通行止めとなった事が重なって道路が大渋滞をしているだけでなく、バスも鮨詰め状態で乗車は不可能だった。仕方がないので国道1号線を五反田駅方面に向かって歩き続けた。途中でコンビニに寄り、万が一のための食糧としてオニギリ数個と、携帯電話に充電するための単三乾電池を購入した。そのまま歩き続けたのだが、さすがにバス停を3つ程通過した辺りで疲労のために歩くのを断念し、長い時間をバス停で待ち続け、バスを2台程見送った後でようやく乗車して五反田駅に向かった(黄緑線)。折からの渋滞で徒歩よりも遅い亀のような速度での運転ではあり、車内では立ち続ける状態ではあったが、歩くよりは遥かに体力を使わないで済む。やがて五反田駅に到着したのは午後7時頃であった。さすがにこの時間になれば電車も復旧していて、これで帰宅できると安堵したのも束の間、そこで信じられない張り紙を目にする事となる。なんと首都圏のJR全線が本日の運行中止を決定したとの内容だった。ここからどうやって帰ればいいの??状態で、しばし呆然と改札口の前で立ちすくんでしまった。土地勘も皆無で交通の便すら完全に分からない、自宅から遥か離れた五反田という場所で、これからどうすればいいのか途方に暮れるとは正にこの事だったと今にして思えばそうなのだろうが、当時はそんな風に自身を客観的に見つめる余裕など一切無かった。

取りあえず現状を奥さんに伝えようとしても、相変わらず携帯からは掛かりづらい状況が続いており、ようやく繋がった電話でこちらの状況を説明すると、自宅の停電は今もまだ復旧しておらず、幸いにもガスはメーター部分の安全装置を解除したら使えたために、緊急時用に買っておいたレトルトのお粥を食べる事ができたが、テレビも暖房も使用できないため、後は寝るしかないとの事だった。ちなみに、これは本当に経験した者でなければ気付かないのだが、懐中電灯は複数あった方がいいという事だ。家族がリビングに集まって1つの懐中電灯で灯りをとっていても、誰かがトイレなどに立つ時に懐中電灯を持って行ってしまうと、リビングは真っ暗になってしまうからである。自宅ではディズニーランドに行った時に買った光が灯るオモチャを持ち出してきて対処したそうである。

私は携帯電話の地図アプリを利用して位置と方向を確認し、埼玉に戻るのに最適であろう京浜東北線沿線に向かおうと決め、品川駅に向けて歩き出した(紫線)。その途上は避難する大勢の人たちが対面に歩き、歩道からはみ出て車道すら歩道に変えてしまっているようだった。途中のコンビニではトイレに長蛇の列を作り、会社に泊まる事を決めたサラリーマン達は無邪気にも宴会でも開くかのように大量にビールなどのアルコールを買い込んでいたが、食料品の棚はガムも含めて何も残っていない状態となっていた。路上には警察官も大勢いて、帰れない人は会社に戻った方がいい旨をマイクを使用して叫んでいたが、居場所が見つからない私は歩き続けるしかなかった。途上で通過した品川プリンスホテルに宿泊する事も頭をよぎったが、もしこの状態が数日続くとしたら、余計な出費は控えた方が賢明と判断して素通りした。やがて品川駅を通過して田町駅に辿り着くまでには2時間を要し、時刻は午後9時を回っていた。

普段はまったく運動という事をしない私にとって長時間の歩行は体力的に厳しかったため、田町駅前の銀行のちょうどいい高さの植え込みのブロックに腰掛けて息を付いたのだが、ちょっとすると地下鉄が動き始めたとの情報が駅員のアナウンスによって入ってきた。元々東京の地下鉄の路線には疎い私だが、路線図を見て上野駅もしくは浅草駅までは行ける事が分かったため、早速浅草線に乗り込み、新橋駅で銀座線に乗り換えて上野駅に向かったのだが、その途上も時速20kmの超低速運転で、しかも渋谷駅で混雑しすぎて危険なために一時運行停止などがあり、ようやく上野駅に到達したのは午後10時30分頃だった。何がムカつくかって、終日運休を決めたJRがとっとと上野駅のシャッターを全部閉めてしまった事だ。帰宅困難者が大勢いるのだから、せめてロビーやトイレを開放すべきだろうと思ったのだが、職員からしてみれば、帰れない人達のやり場のない怒りを理不尽に向けられてはたまらない防衛の意味もあったかもしれない。実際には線路を歩くとか、その上での事故などの事態を避けるためだったと想像するのだが、果たして真意は不明である。

上野なら深夜バスがあるかもしれないと気付いてネットで検索してみたところ、上野発春日部行きのバスがある事を発見したため、乗り場となっている京成上野駅前に行ってみたのだが、地震のために運休との張り紙があった。浅草駅から出ている東武伊勢崎線も全面運休との事なので、もうこれで自宅へ帰る手段は完全に断たれた事となる。携帯電話のバッテリーが切れたが、以前から乾電池式の充電器を持っており、先ほど備えあれば憂いなしの気持ちで購入した乾電池で不便に陥るのを回避する事ができた。少し上野の街中を歩いてみたが、24時間営業のレストランなどは見当たらず、ファーストフードなどは超混雑で入れないため、腹を決めてここで夜を明かす事とし、他の帰宅困難者と同じように地下鉄の駅へ続く地下道からJR上野駅に上がる階段に腰を降ろして、MP3プレーヤーに内蔵されたFMラジオで情報収集をしつつ夜が明けるのを待った。

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    通常の運行ならば、大宮行き京浜東北線の始発は午前4時30分頃に、高崎線は午前5時過ぎに出るはずだが、何の情報も無い今の状況では期待できないと分かってはいても、まかり間違ってダイヤ通りの運行が成されないかと微かな期待をしてしまう。あれこれ想像しても事態は何ら変化しないと分かっていても、どうやったら一刻も早く帰宅できるのかの算段をしてしまう。FMラジオでは繰り返し鉄道の運行状況と帰宅困難者を一時的に受け入れるために開かれた施設の情報を流していたが、なぜか上野だけは何も避難場所が無く、だったら田町駅から頑張って1駅歩いて浜松町駅前の貿易センタービルに行けばよかったと今さら思っても仕方が無い事であった。時刻が進む度に始発まであと○時間と逆算していたのだが、夜が更けるにつれて冷え込みが徐々に厳しくなり、そうやって無駄な思考でも起こして気を紛らさないとネガティブな面ばかりが出てしまう懸念があった。

    携帯電話でネット情報を検索すると、JRは各路線とも運行情報が表示されて復旧未定が把握できたのだが、東武伊勢崎線は何も表示されず、つまりそれは始発から正常に運行するのかもしれないという淡い期待を抱くのは、精神的にも肉体的にも逆境に立たされてる者ならば誰もが同じであろう。伊勢崎線が動けば春日部もしくは久喜まで行けて、そうすれば奥さんに車で迎えにきてもらう事も可能となる。午前4時30分頃、私は早速銀座線で浅草に行ってみた。が、期待はあっさりと裏切られた。東武伊勢崎線の駅はシャッターが下りたままで、やがて駅員が大きな紙をガムテープで貼りに来たのだが、そこには復旧未定が記されていた。私は足取りも重く上野駅に引き返した。

    午前5時30分頃、JR上野駅はシャッターが上げられて広い構内に入る事ができた。繰り返される放送によると、私が利用する高崎線は午前7時過ぎには運行開始との事である。しばらくは構内のハードロックカフェの前に設置されていたモニターでニュースを観ていたのだが、そこに映し出された映像を見て驚いた。東北地方の海岸線の各地を津波が襲う状況が繰り返し鮮明に流されていたからだ。家屋が凄まじい津波に耐えられずに地面を離れて崩壊しながら流され、一般道を走る乗用車が逃げ惑う間もなく津波に飲み込まれていく。まるでパニック映画に出てくるCGような、しかし昨日実際に起こった現実の映像だった。それに比べれば家に帰れないだけで命の危険がない現状は嘆くに値しないのかもしれないなどと思いつつ、やがて他の大多数の人達と同じように、壁際で床に座る場所を見つけて腰を下ろし、そのまま少しウトウトと眠った。

    全部が「調整中」と表示された電光掲示板の写真を撮っておけば良かったと後になって思ったが、その時にはそんな思考を働かせる程の余裕は無かった。午前6時30分頃、その電光掲示板の文字を無視して何気なく改札を通ってみたのだが、ホームに停止している電車はパンタグラフすら下ろされて静まり返っており、しかし多くの人が電車のドアの前に並んでいた。夜が明けるにつれて風が出てきて暗かった時よりも体感温度が徐々に低くなっていくのを理解しつつ、待つ事以外に何もする事がない私も動かない電車を待つ列に並んでみた。が、立ってるよりも座ってる方が楽なのは言うまでも無く、その後はホームのベンチに座って、ここでも寒さに耐えながら少しウトウトと眠った。

    京浜東北線は午前7時過ぎから徐々に動き始め、一刻も早く帰りたい私は何度も乗ってしまいたい衝動に駆られたが、全部が南浦和止まりなので、大宮よりも先に行きたい私にとっては無意味なので何とか留まっていた。結局、高崎線が動き始めたのは午前9時35分だったのだが、構内放送で電車が動くことが繰り返し伝えられたため、それを聞いた人々が殺到し、すでに満員な状態だったところに無理やり乗り込み、もうこれ以上は乗れないだろうと思っていた私がドア付近から車両の中央付近まで押し込められたのだから、今この電車には一体どれだけの人が乗っているのかは想像したくなかった。もしこの状態で大きな余震が来て緊急停止などしたら、と想像しただけで私は泣きたくなるような気持ちで一杯になった。電車は最大でも時速25kmで線路に異常が無いかを確認しながらノロノロと走り、途中では何度も停止を繰り返し、本来ならば30分で着く距離を2時間もかけて走行した。時間が経つにつれて高くなっていく太陽の熱と、まさに鮨詰め状態である厚着をした人々の体温で、車内の温度は冬とは思えない程に高くなり、昨夜は寒さから身を守るのに非常に役に立ったロングコートにマフラーを着用していた私は徐々に気分が優れなくなり、奥さんとメールで連絡を取って、途中の駅まで迎えに来てもらう事にした。何しろ喉が渇いて仕方が無かった。大宮を過ぎてからは電車も本来の速度で運行したため、それまでと比較したらアッという間に目的の駅まで辿り着けたのだが、それでも通常の倍もの時間を要した。そこで車で迎えに来てくれた奥さんと合流し、昼食を買って家に帰り着いたのは午後1時頃だった。

    自宅では明け方に停電が復旧したようで、大きな揺れによる物の落下などはほとんど無く、せいぜいPCデスクの上に高く積み重ねられた私のCDが倒壊した程度であった。近所の家ではトイレのタンクの水が大量にこぼれたらしいが、私の家のトイレのタンクには節水のために500mlのペットボトルに小石を入れて2本沈めてあるため、水量が少ない事が幸いしてこぼれなかったようだ。また、オール電化の家では停電時に本当に何事の一切もできなかったようだが、ガスを引いている我が家では、寒い時期に温かいお粥を食べる事ができたのは実に有難かったようである。何れにしろ、寒さと不安に苛まされた私の長い夜がようやく終わった。

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